BRIAN JAMES INTERVIEW 2006(前編)

DAMNED.jpg…御存知の方も多いと思うが、俺はDOLLという音楽雑誌で約10年にわたって文章を書いていた。
しかし残念ながらそのDOLLは先月を以て休刊(事実上の廃刊)となり、版元であった株式会社ドール自体が解散してしまっている。
株式会社ドール解散に際して、版権に関する確認を行ない、それまでDOLL誌上で書いた記事の権利は俺自身に帰することが確認された。
(コレはまあ当然なんだけど)
その中には、数多くのインタヴューも含まれている。
有名無名、いろいろなバンドやミュージシャンにインタヴューした。
今後このブログでそれを改めて公開して行こうと思う。
多くのインタヴューは、掲載のため誌面のスペースに合わせるべく内容を削っていたワケだが、ここでは“完全版”に近い内容で載せて行くつもりでいる。
さて、記念すべき第1回は、THE DAMNED~THE LORDS OF THE NEW CHURCHなどで活躍したギタリスト、ブライアン・ジェイムズの発言をお届けしよう。
このインタヴューはブライアンの(当時の)新バンド、BRIAN JAMES GANGのアルバム『BRIAN JAMES GANG』のリリースに合わせて行なわれたモノで、記事自体はDOLL2006年10月号に掲載された。


―こんにちは。今回は遡ってかなり昔のことも質問したいと思うのですが、どうかよろしくお願いします。…まず、あなたの誕生日は1955年2月18日で間違いないですか?
「非常に近いね。それ以上は近づけないくらい、近い。うん、合ってるよ(笑)」
―ギタリストとして、誰に一番影響されましたか?
「難しい質問だねー。一人に絞るのは、ちょっと無理だなあ。まずは、ピーター・グリーン(元FLEETWOOD MAC)。最高のブルーズをくれるギター弾きだから。そして、シド・バレット(元PINK FLOYD)。彼は、100%純正の魔法だね。ピート・タウンゼンド(THE WHO)。彼のパワー・コードとフィードバックは最高だね。ジミ・ヘンドリックス。地球を訪れた史上最高のギタリストだから。今挙げた面々を大きな壺に入れて、長い棒でグルグルかき回したら、願わくは、ほんのちょっとの俺がそこから出てくる。そうだといいなと思うよ(笑)」

―あなたが参加していたLONDON S.S.は、とても資料の乏しいバンドです。音源などはまったく存在しないのでしょうか?
「LONDON S.S.と俺との出会いは、音楽誌「メロディ・メイカー」に載った“メンバー募集”の広告だったんだ。“初期のSTONESやSTOOGESを演る仲間募集”とあって、当時UKでSTOOGESが好きという奴にはほとんど出会ったことがなかったから、興味を引かれて会いに行ったんだ。ギタリストでソングライターのミック・ジョーンズという奴と、トニー・ジェイムズというベーシストだった。その二人が、ギタリストと、ドラマーとシンガーを募集していたんだ。俺は、その仲間に入りたいと思ったけど、すぐには無理だった。その時俺はベルギーでBASTARDSというバンドをやっていて、そっちを片付けてくるまで待ってくれ、と言ったんだ。BASTARDSはもう解散寸前だった。だから、俺はギターとアンプ、レコードや洋服をまとめて、余計なものは実家に預けて、急いでロンドンに向かうことにした。その引越しの段取りに3~4ヶ月かかったかな。そして、連中と仲間になって、一緒に曲を作ったりし始めたんだ。その間もずっと、ドラマーとシンガーを探し続けていた。パディントンって場所を拠点にしていたんだけど、そこには実にいろんな連中がオーディションを受けに来たよ。だけど、ピンとくる奴とは出会えずにいたんだ。ある時、一人のドラマーがオーディションにやってきて、体中をボリボリかいてるんだ。“疥癬”(Scabies)っていう伝染病だとかいってさ。そいつがドラムの前に座ったちょうどその時、コレは本当の話なんだけど、ネズミがリハーサル・ルームの床を駆け抜けて行ったんだ! それを見たミックが叫んだんだ、「コイツは“ラット・スキャビーズ”だ!!」って。…ラットみたいなクレイジーなドラムを叩く奴は他にはいなかったよ。オーディションにやってきた他の誰とも違っていた。みんなは大体、なんていうか、普通のドラマーで、独特の魔術を持っていなかった。だけど、ラットはその魔術を持っている奴だった。俺はあいつのそんなところが凄く気に入ったんだ。あいつのドラムにつられて、俺はアンプの音量を上げたくなる。パワー・コードをもっと弾きたくなる。ノッてくるんだ。だけど、他の二人はラットを好きじゃなかった。だから、俺とラットは二人で別のバンドを組むことにしたんだ。そしてミックは、オーディションにやって来た男と組んで、THE CLASHというバンドを始めた。ポール・シムノンというハンサムな男で、ミックはそのルックスが気に入ったんだ。トニーは、別のメンバーとCHELSEAというバンドを始めた。それから、CHELSEAのギタリストと二人でまた別のグループを作った。そのギタリストがシンガーになっていて、グループの名前はGENERATION Xだった。シンガーの名前は、ビリー・アイドル。…というわけで、LONDON S.S.は遂に一度もギグをやることはなかったんだ。リハーサルとオーディションばかりだった。だけど、その活動を通して、俺たちはロンドンでいろんな連中とめぐり合うことが出来たんだ。そこでの出会いを通して、最低でも三つの、あるいは四つか五つのバンドが生まれたというわけだったんだよ。LONDON S.S.の音源は、おそらくミックの手元にあるはずだ。リハーサルのテープがね。俺も実際に聴いたことはないんだけど、音の状態は相当いいはずなんだ。だけど、彼はリリースする気はないみたい。残念だけどね。パンク史の一部として、聴きたいと思う人もいるかも知れないのにね。ミックはもうCLASHで大金持ちになっちゃったから、そんなことにはもう興味がないんだろう」

―オリジナルのTHE DAMNEDでは、あなたが実質的なリーダーだったのでしょうか?
「うん、そうだね。曲を持っていたのは俺だったし、何を演りたいかは俺がわかっていた。俺は、“自分のバンドのメンバーになってくれるイギー・ポップ”を探していたんだよ。バンドの名前も前から決めてて、そしてラットと出会ったとき、これは何かいいものが出来るって確信したんだ。そしてベーシストとシンガーを探し始めた。ラットは後に“キャプテン・センシブル”になったレイ・バーンズ(註:元JOHNNY MOPED)と知り合いで、そしてマルコム・マクラーレンを通じてデイヴ・ヴァニアンと知り合った。実はこのとき、シンガーとしてオーディションにやってきた男は二人いたんだ。一人がデイヴで、もう一人がシド・ヴィシャスだった。もちろんPISTOLS以前の話で、その頃奴はベースも何もまだ弾けなかったんだよ。何しろそんな感じで、狭い世界の中でゴチャゴチャとやっていたわけだ。LONDON S.S.で俺がラットを発見する3~4ヶ月前にSEX PISTOLSは結成されていたから、みんなでライヴを観に行ったりしていたよ」

―THE DAMNEDの2ndアルバム『MUSIC FOR PLEASURE』は何故ニック・メイスン(PINK FLOYDのドラマー)がプロデューサーだったんですか?
「当時、THE DAMNEDが1stアルバムと2ndアルバムで契約していた音楽出版社の社長が、ピーター・バーンズという男だったんだが、その会社がPINK FLOYDの作品も扱っていたんだ。PINK FLOYDのメンバーとは非常に親しい男だった。それを知った俺たちは、特に俺とキャプテンがシド・バレットの大ファンだったんで、なんとかシド・バレットに会えないだろうか、俺たちのアルバムのプロデュースをしてもらうわけにはいかないだろうか、とピーターに頼み込んだわけだ。シド・バレットというのは、PINK FLOYDのオリジナルのシンガー、ギタリスト、ソングライターで、麻薬のやり過ぎや精神の病で、活動には参加しなくなってしまったメンバーだった。だけど、素晴らしいミュージシャンだったことは間違いない。その彼に、なんとか俺たちの2ndアルバムの制作を手伝ってもらいたいと思ったんだ。だけど、それは無理だとピーターは言った。どうやったって、シドを引っ張り出すのは無理だってね。だけど、ニック・メイスンなら、そういうことに興味を持つかも知れないから、話をしてみてやろうかといわれて、頼むことになったんだ。パンクとはまったく無縁の人と一緒に仕事をするというのは、ある意味では賭けだと思ったけど、残念ながら、その時点では彼はPINK FLOYD以外の音楽をプロデュースした経験はあまりなくて、プロダクションはひどいものだった。また、曲によってはまだレコーディングする状態にまで完成していなかったものもあった。だけど、当時のレコード会社、スティッフ・レコーズは次のアルバムをすぐに出せ、と凄くせかしてきたんだ。だから結果として、俺たちはバンドとして準備不足だったし、曲も未完成だったし、ニック・メイスンはプロデューサーとして経験不足だったということで、悪条件が重なった実験的なアルバムという感じになってしまったんだ。もちろん、実験的な要素を多く入れたかったわけだから、新しいことにも挑戦した。それが発表された当時は、みんなをガッカリさせてしまったわけなんだけど、不思議なことに、最近ではそれが高く評価されているというじゃないか。2ndアルバムがDAMNEDの作品の中では一番良かった、なんていろんな人によく言われるんだ、最近。おかしな話だな、と思うよね。時の流れがアルバムを成熟させてくれたのかな」
(註:ニック・メイスンは当時GONGなどのプロデュースを手がけていたが、パンク・バンドとの仕事はしていなかった)

―1978年、THE DAMNEDが“再結成”した時、あなたにも声がかかったのでしょうか?
「別に声はかからなかったよ。その時には俺は既にTANZ DER YOUTHというバンド(註:元HAWKWINDのドラマー、アラン・パウエルが在籍)で、シンセを使った実験的な音楽を演っていたんだ。もう俺の興味はパンク・シーンにはなかった。パンクの創成期には確かにそこにいたし、イギーやMC5は大好きだったし、主張のあるああいう音楽が好きだったし、それが俺の演りたい音楽だった。76年半ばから77年半ばまでのロンドンは最高だったよ。それぞれに独特の主張をもったグループが次から次へとどんどん出てきたんだから。だけど、77年半ばを過ぎると、物真似バンドが多くなってきた。みんなが同じ服を着て、最早それは反逆じゃなくなってしまっていた。誰ももう何も新しいことをやらなくなってしまったし、俺としては、逆にそれに対する反逆を起こしたい気持ちでいっぱいだったんだ。パンクがこんな方向に進んでしまうなんて、もうガッカリだったよ。こんなに素晴らしい(自己主張の)チャンスがそこに出来たっていうのに、誰もそれをやらなくなってしまったなんてね。オリジナルのパンクの精神がどうのこうのなんて、そんなことを言う奴が出てきたのはそれから何年も後だっただろう。その頃は、ボンデージ・ファッションに身を包んだコピー・バンドだらけだよ。そいつらの“反逆”の度合いを計測したら、BAY CITY ROLLERSと変わらない数値が出るだろうというくらい、まったく飼いならされてしまった。“反逆”する相手すら見つからなくなってしまったんだ。クローンだよ。俺にとっては、悲しいことだったね。だから、俺はまったく違うことがしたいと思って、TANZ DER YOUTHを結成したんだ。実験的なバンドだったけど、「I’m Sorry, I’m Sorry」というシングルを作って、それは良かったと思ってる。だけど、その後は続かなかった。そしてちょうどその時、イギー・ポップの北米ツアーにギタリストとして参加しないかという話が舞い込んだんだ。俺のヒーローであるイギーから声がかかったんだから、俺はロンドン一、幸せな男になったよ。そして実験的な音楽のことなどすっかり忘れて、ロックンロールを弾きまくりに出かけていったんだ。それを歌ったら右に出る者はいないという、最高のシンガーと一緒にね。彼は本物だよ、オリジナルだ。そのツアーのバンドには、SEX PISTOLSのオリジナル・ベーシスト、グレン(マトロック)も一緒に参加していて、彼とは元々友達だから、とても面白い経験だった。それが1979年。その時点でTHE DAMNEDにはまったく興味はなかったんだ。話は78年の初めに戻るんだけど、その時点ではもうラットもDAMNEDにはいなかった。ジョン・モスという新しいドラマーが入っていたんだ。彼は後にCULTURE CLUBのドラマーになったんだけどね。そもそも、俺がDAMNEDを始めたのは、ラットと一緒に演りたかったからで、ラットが脱退してしまってからは、“その他”の役を埋めるために雇ったメンバーと俺がなんとなく残ってしまった感じだったんだ。その時点で、俺はキャプテンとデイヴに、解散しようと言ったんだよ。俺にとってのDAMNEDはもう終わったんだ、ってね。だから、そのあとにラットとキャプテンとデイヴがまた集まって、もう一度やろうと言ったときには、まったく興味が湧かなかったんだ。俺はもう他のミュージシャンたちと、新しいことをやる、自分の道を進んでいたわけだからね。ミュージシャンとして進化を遂げていたんだ。俺に言わせれば、俺は前進していたわけだよ。再結成なんて、後退だとしか思えなかったんだ。だけど、まあ、奴らの演ったものを聴いてみれば、意外と悪くなかった。だから、俺が思っていたほど“後退”ではなかったんだな」

―その後アラン・リー・ショウと活動しますが、彼とはいつ頃から親交があったのでしょう。
「アランとはねえ、えーっと、どうやって知り合ったんだっけ。そうそう、PINK FAIRIESのトゥインクを通じて知り合ったんだ。トゥインクは元々はドラマーだったけど、シンガーになって、THE RINGSというバンドをアランと一緒に作ったんだ。それが俺は凄く気に入ったから、一緒にライヴをやらないかって、誘ったんだ。それがきっかけで俺とアランが仲良くなって、俺がイギーのツアーを終わったあと、一緒に活動していたんだよ」

―THE LORDS OF THE NEW CHURCH(以下LORDS)結成の際、当初リズム・セクションとしてテリー・チャイムズ(元THE CLASH)やトニー・ジェイムズ、グレン・マトロックなども候補になっていたというのは本当ですか?
「本当だよ。最初はトニーとテリーと一緒にリハーサルを始めたんだ。だけど、その二人がマネージャーと相性が悪くてね。マイルズ・コープランド(註:後にI.R.S.レコーズ社長としてLORDSの作品をリリース)という男だったんだが、上手く行かなかった。それから俺がグレンを誘って、同時に(EDDIE & THE)HOT RODSのドラマーだった奴も誘ったんだ。スティーヴ・ニコルだね。そして俺、グレン、スティーヴという3人組になった。そのメンバーで何回かリハーサルをやってみたんだけど、前と同じで、どうもグレンとマイルズがしっくり行かない。そして最終的には、スティーヴ(ベイター)が知り合いのデイヴ・トレガンナを呼んできたんだ。そいつらは、元々LAで出会って、ジミー・パーシーを除いたSHAM69のメンバーが、スティーヴをイギリスに呼び寄せるためにわざわざバンドを結成したという話があるくらい、仲良しだったんだ。デイヴは素晴らしかったよ、すぐに仲間になった。それから、BARRACUDASというバンドで演奏していたニッキー(ターナー)という男を呼んできた。俺とスティーヴが最初に出会ったのは、77年にDAMNEDがCBGB’sに出演した時のニューヨークだったんだけどね。彼は当時DEAD BOYSで、(CBGB’sで)共演したんだよ。長い付き合いなんだ。1980年の11~12月頃に、DEAD BOYSを脱退したスティーヴが『DISCONNECTED』というソロ・アルバムを出すというんで、そのギグでギターを弾くために俺はNYに行ったこともあるんだ。厳密に言えば、LORDSの結成の始まりはそのあたりまで遡ってもいいと思うんだよ」

―『THE METHOD TO OUR MADNESS』の後、情報が乏しくなりましたが、LORDSの活動状況はどんな具合でしたか?
「基本的にはもう解散状態だったんだよ。新しいダニーというドラマーを入れて、少しの間やってみたけど、もう昔のようには上手く行かなかった。デイヴは脱退して、そしてまた戻ってきて、スティーヴはパリに引っ越していってしまった。ロンドンでずっと俺の近所に暮らしていたのにね。近所だったから、しょっちゅう会って、一緒に仕事もしやすかったし、彼のことを見守っていられたんだ。あいつは、なんていうか、凄く壊れやすいたちで、あいつの父さんと母さんに、あれをよろしく頼むって、俺は言われていたんだよ。だけど、フランス人の彼女が出来て、一緒にパリに引っ越してしまった。だから、俺たちはあまり会わなくなってしまったんだ。空中分解だよ。バンドは自然消滅して行った。残念なことだったね。あいつのことは本当に愛していたから。そして、(スティーヴは)パリで亡くなってしまったんだ」


…以下、後編に続く。
明日もお楽しみに。


(2019.7.8.改訂)

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